1904年1月14日 – 1980年1月18日 76歳

セシル・ビートンはロンドン・ハムステッド出身の写真家・画家・ファッションデザイナー。木材商の裕福な家庭に生まれ、幼い頃に祖母から写真を教わった。社交界を賑わせた二人の妹
ババ (1912–1973, 61) と
ナンシー (1909–1999, 89) のビートン姉妹と共に
「ブライト・ヤング・シングス」のメンバーであった。
ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに進み歴史・美術・建築を学んだが1925年に中退。英国版『VOGUE』や『Vanity Fair』の専属カメラマンとなり、ファッション写真や社交界、王室写真のポートレートで知られるようになったが、1938年に米国版『VOGUE』でイラストの横に判読できる小さなサイズで反ユダヤ主義のフレーズを挿入し解雇された。
イギリスに帰国したビートンは女王から情報省に推薦され、
ロンドン大空襲で負傷した3歳の少女アイリーン・ダン (
Eileen Dunne) を撮影。この写真はアメリカの『LIFE』1940年9月23日号の表紙を飾り、窮状のイギリスはアメリカに参戦を促した。戦後、ビートンはブロードウェイで舞台装置・衣装・照明をデザインし、俳優として舞台に立ち、さらに映画『ジジ』(1958)『マイ・フェア・レディ』(1964) でアカデミー賞衣装デザイン賞を受賞した。
1968年、ロンドンの
ナショナル・ポートレート・ギャラリーで初の写真展「ビートンの肖像 1928–1968」を開催。「王室」「戦争の英雄」「作家」「作曲家」「有名人」などテーマ別に展示し、8万人以上が観覧した。翌年にはニューヨーク市立博物館で「600 Faces by Beaton 1928–1969」が開催。その間、ビートンは
アンディ・ウォーホルと
ファクトリーのメンバーを撮影した。1972年、ナイトに叙せられた。
晩年は脳卒中で右半身が麻痺したことで経済面が不安になり、サザビーズと交渉し毎年の収入を確保した。1980年1月18日、自宅
レディッシュハウスで誕生日を迎えた4日後に76歳で他界した。ビートンは女優
グレタ・ガルボや社交界の名士など様々な男女と関係を持ち、オリンピックに出場したフェンシング選手
キンモント・ホイツマが最後の恋人となった。愛聴曲は
ベートーヴェンの交響曲第1番だった。