Harry Benson by Alan McAteer

1929年12月2日 –
ハリー・ベンソンはスコットランド・グラスゴー出身の写真家。1964年、ビートルズ初のアメリカツアーに同行。エリザベス・テイラーの脳手術前後を撮影し、マイケル・ジャクソンは寝室への立ち入りを許可した。アイゼンハワー大統領以降すべての米国大統領を撮影し戦場を取材。写真は『LIFE』『Vanity Fair』『The New Yorker』『People』に掲載された。

全米報道写真家協会「雑誌写真家オブ・ザ・イヤー」(1981, 1985)「ルーシー賞」(2005)「アメリカ写真賞」(2005) スコットランド報道写真賞「生涯功績賞」(2006) 王立写真協会「名誉フェロー」(2009) 大英帝国勲章 (2009) など受賞・受勲多数。エイミー・ワインハウスの2ndアルバムで遺作『Back To Black』(2006) の表紙、2014年にはスコットランド国立肖像画美術館の依頼でエリザベス女王の公式肖像写真を撮影した。
1927年10月12日 – 2008年10月11日 80歳
ウィリアム・クラクストンはカリフォルニア州パサデナ生まれの写真家。1960年代にジャズアーティストやスティーブ・マックイーンを撮影したことで有名。1959年にモデルのペギー・モフィット (Peggy Moffitt, 1937–2024, 86) と結婚し、1973年にクリストファーを授かった。
1929年10月3日 – 2013年6月26日 83歳
バート・スターンはアメリカ出身の写真家。ブルックリンのユダヤ系移民の家庭に生まれ、高校中退後『Look』誌に就職した後、『Flair』誌のアートディレクターとなり写真撮影を開始。1951年、アメリカ陸軍に徴兵され日本で写真部門に配属された。

1958年、伝説的なジャズ・プロデューサーのジョージ・アバキアンの弟アラム・アバキアン (Aram Avakian, 1926–1987, 60) と映画『真夏の夜のジャズ』 (1960) を監督。1960年代、アンフェタミンを大量に使用していたため、著名なバレリーナのアレグラ・ケント (Allegra Kent, 1937– ) との結婚生活に終止符を打った。

1962年6月と7月『VOGUE』誌の​​ためにマリリン・モンロー (Marilyn Monroe, 1926–1962, 36) を撮影したが、8月5日にモンローがオーバードーズで他界。「The Last Sitting」と呼ばれるモンロー最後のこのセッションでは2571枚の写真が撮影され、 1992年に『The Complete Last Sitting』として出版された。

1970年代、スターンは麻薬中毒から回復するためにスペインに移住。1970年代後半に帰国し活動を再開した。1979年、ジャーナリストのローレンス・チルニックと共に『The Pill Book』を出版し1800万部を売り上げた。なお、アラム・アバキアンは生前最後の2年間をアレグラ・ケントと過ごした。
1926年4月19日 – 2022年9月10日 96歳
ウィリアム・クラインはフランスの写真家・映画監督。ニューヨーク市の貧しいユダヤ人家庭に生まれ、14歳でニューヨーク市立大学に入学し社会学を学んだ。第二次世界大戦中、アメリカ陸軍に入隊しドイツとフランスに駐留。除隊後はフランスに永住した。

1948年、ソルボンヌ大学に入学した後、画家フェルナン・レジェに師事。1952年、ミラノで開催した個展が成功し、建築家アンジェロ・マンジャロッティとコラボレーションを行った。

クラインはキネティックアートの展覧会で『VOGUE』の​​アートディレクター、アレクサンダー・リーバーマン (Alexander Lieberman, 1912 – 1999, 87) と出会ったことから写真の道へ進み、同誌の​​ファッション写真家としてキャリアをスタート。1957年にナダール賞を受賞した。クラインはファッションに相反する皮肉なアプローチとして、広角レンズや望遠レンズ、自然光、モーションブラーを多用したことからストリート写真の先駆者の一人として考えられている。

ハーブ・ルバーリン (Herb Lubalin, 1918–1981, 63) と出版者「Delpire & Cie」を経営していたロベール・デルピエール (1926 – 2017, 91 女性写真家サラ・ムーンの夫) と『Who Are You, Polly Maggoo?』(1966) など長編映画やドキュメンタリー、250本以上のテレビコマーシャルを制作した。
1925年4月9日 – 1995年2月3日 69歳
アート・ケインは1950–1990年代に活躍したアメリカ写真家。本名はアーサー・カノフスキー (Arthur Kanofsky) といい、ロシア帝国の虐殺から逃れたブロンクスのユダヤ人の難民の家庭に生まれた。イラストレーターを志し、名門クーパー・ユニオン美術大学に入学。第二次世界大戦中は欺瞞活動を専門とした特殊部隊ゴースト・アーミーに所属した。

戦後、 26歳で『Seventeen』の最年少アートディレクターとなったが、やがて写真へ情熱が傾き、天才アレクセイ・ブロドヴィッチ (1898–1971, 73) に師事。1958年『Esquire』からニューヨークのハーレムに集まった57人のジャズミュージシャンの集合写真を撮影する仕事を受け、写真家としてキャリアをスタートした。「A Great Day in Harlem」と題されたこの写真は「ジャズ史上最も象徴的な写真」と評され、ジャン・バッハ監督のドキュメンタリー映画『A Great Day in Harlem』(1994) となった。

1960年代はボブ・ディラン、アレサ・フランクリン、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、ジェファーソン・エアプレイン、ソニー&シェール、フランク・ザッパ、ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリンなどのミュージシャンの撮影、 マルボロ、ハイネケン、ボルボ、フォルクスワーゲン、ユナイテッド航空、TWA、アメリカン航空、イースタン航空、ブリティッシュ・エアウェイズなどのテレビコマーシャルの監督も務めた。1964年にアメリカ雑誌写真家協会(ASMP)から「年間最優秀写真家」に選ばれ、1984年にはASMP「生涯功労賞」など数々の賞を受賞した。

1995年2月3日、ケンタッキー州ガラード郡にある元妻ミリセント・ケインの自宅で自殺。69歳だった。作品はニューヨーク近代美術館とメトロポリタン美術館のパーマネントコレクションに収蔵されている。息子のジョナサン・ケイン (1956– ) はミュージシャンで、マディ・ウォーターズやドクター・ジョンなどのオープニングを務めた。
1924年5月3日 – 2023年4月7日 98歳
カール・フィッシャーはアメリカの写真家・アートディレクター。ブルックリンで生まれ、名門クーパー・ユニオンで絵画とグラフィックデザインを専攻。1948年にオーガスタス・セント・ゴーデンズ・メダルを受賞して卒業し、ロンドンのセントラル・セント・マーチンズ美術大学でブックデザインとタイポグラフィ、独学で写真撮影を学んだ。

帰国後、ふたりのグラフィックデザインの巨匠ポール・ランド (1914–1996, 82) やハーブ・ルバーリン (1918–1981, 63) のスタジオでデザイナーとしてキャリアをスタート。1963年にハロルド・ヘイズが『Esquire』誌の編集長に就任すると、1971年まで名アートディレクターのジョージ・ロイスと組み、雑誌デザイン史に残る数々の表紙を発表した。以後、テレビコマーシャルの監督、ロチェスター工科大学の非常勤講師、アートディレクターズクラブの会長を務めた。

Richard Avedon by Irving Penn, 1978

1923年5月15日 – 2004年10月1日 81歳
リチャード・アヴェドンは「20世紀最高のファッション写真家」のひとり。 愛称 "Dick"。ニューヨークのロシア系ユダヤ人の家庭に生まれ、コロンビア大学で哲学を専攻。1944年から1950年までアレクセイ・ブロドヴィッチ (Alexey Brodovitch, 1898–1971) に写真を学んだ。1945年『Harper's BAZAARー』の専属カメラマンとなり次々と傑作を発表。1966年に『VOGUE』へ移籍し1990年まで同誌で活躍した。ビートルズ、サイモン&ガーファンクル、シェール、スライ&ザ・ファミリーストーン、ホイットニー・ヒューストンなどを撮影したカバーアートも有名。世界的ファッション写真家 Hiro (若林康宏 1930–2021, 90) はアヴェドンの元アシスタント。
1920年10月31日 – 2004年1月23日 83歳
ヘルムート・ニュートンはドイツ出身の世界的ファッション写真家。本名はヘルムート・ノイシュテッター (Helmut Neustädter) といい、ユダヤ系の両親のもとベルリンに生まれた。12歳の頃から写真に興味を持ち、カメラを購入して1936年から女性写真家イヴァ (Yva, 1900–1944, 44) のもとで働いた。1938年ユダヤ人迫害のためドイツを離れ、シンガポール最大の新聞『ザ・ストレーツ・タイムズ』で写真家として働いた。第二次世界大戦中はオーストラリア軍の輸送隊に所属。戦後は英国国民となり、1946年に苗字をニュートンに改めた。

1948年、女優ジューン・ブラウン (June Browne, 1923–2021, 97) と結婚。フリーとなり写真は『PLAYBOY』などに掲載された。1957年より英国版『VOGUE』、1961年よりフランス版『VOGUE』や『Harper's BAZAAR』で撮影し、フェティシズムをともなったエロティックなスタイルを確立。1970年に心臓発作に襲われたが、精力的に活動した。

1999年、フィリップ・スタルク (Philippe Starck, 1949– ) が特注スタンドをデザインした巨大な写真集『SUMO』(50×70 cm 30kg) をリリース。オークションで被写体80名のサインが入った初版が43万ドルで落札され、20世紀に制作された本の中で最大かつ最も高価な本となった。2003年10月、ベルリンのプロイセン文化財団に多くの写真コレクションを寄贈。2004年1月23日、ハリウッドのシャトー・マーモント・ホテルから車で出る際、心臓発作による衝突事故で他界した。
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