1939年10月7日 – 2007年3月1日 67歳
ジョエル・ブロツキーはアメリカの写真家。ニューヨーク州ブルックリンで生まれ。1960年にシラキュース大学を卒業し、ブルックリンのカメラ店で働きながら写真撮影をはじめ、1964年に自身のスタジオを開設。ミュージシャンの写真、特にジム・モリソンのポートレイトが有名で400枚以上のアルバムカバーを撮影した。その後、レブロン、エイボン、デュポンなどの広告キャンペーンを撮影し、コマーシャルフォトに専念した。
1939年7月1日 –
フランシス・ジャコベッティはフランス出身の写真家・映画監督。ルセイユの裕福な家庭に生まれ、18歳のときに写真に目覚めた。『Marie Claire』誌の写真家モーリス・タバール (Maurice Tabard, 1897–1984, 86) のアシスタントとして雇われ、エルザ・スキャパレリ (Elsa Schiaparelli, 1890–1973, 83)、マダム・グレ (Madame Gres, 1903–1993, 89)、ピエール・バルマン (Pierre Balmain, 1914–1982, 68) など数多くのクチュリエのページを担当。20歳で主要ニュース雑誌『Paris Match』のカラーコンサルタントを経て、雑誌『Lui』のアートディレクター、1960年代から1980年代にかけてフランス版『PLAYBOY』などで撮影した。

1975年、映画『Emmanuelle 2』続エマニエル夫人)を監督、1984年『Emmanuelle 4』をプロデュース。その後、エロティック写真から離れ、フィデル・カストロミハイル・ゴルバチョフ、ノーベル文学者のガブリエル・ガルシア・マルケスフェデリコ・フェリーニスティーヴン・ホーキング博士らを撮影。1994年、フランシス・ベーコン、黒澤明、ダライラマ14世ら世界の著名人を撮影した写真集『HYMN』を発表した。

世界的な調香師オリヴィア・ジャコベッティ (Olivia Giacobetti, 1966– ) は娘。1987年『007 ユア・アイズ・オンリー』(1981) でボンドガールを演じた女優キャロル・ブーケ (Carole Bouquet, 1957– ) との間にルイを授かった。
1939年8月31日 – 2012年4月29日 72歳
ジム・マクラリーはアメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス出身の写真家。写真は独学。1967年、A&Mレコードに雇われチーフ・カメラマンに就任し、ロック史上最も有名なカバーアートの数々を撮影した。1974年、ハリウッドにスタジオを開設。2012年、慢性神経系疾患の合併症により72歳で他界した。
1938年7月30日 – 2019年11月16日 81歳
テリー・オニールはイングランド出身の写真家。1960年代に撮影した著名人やファッション写真が有名。 2004年、王立写真協会の名誉会員に選ばれ、 2011年には同協会の100周年記念メダルを受賞した。彼の作品はロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーに収蔵されている。
1938年5月5日 –
鋤田正義(すきたま さよし)は福岡県直方市出身の写真家。幼少期から国内外の映画に親しみ、高校生の頃は直方から博多まで自転車で映画を観に行ってたいという。日本写真映像専門学校を卒業後、大阪で棚橋紫水 (Shisui Tanahashi, 1906–1991) のアシスタントを経て、広告代理店「大広」に入社し1964年まで在籍。この時期に大阪のジャズ喫茶「バンビ」に入り浸り、来日したアート・ブレイキーやウェイン・ショーターを撮影した。

日本写真映像専門学校の同級生でアートディレクターの宮原鉄生に誘われ、彼が立ち上げた原宿のデザイン事務所「デルタモンド」に入社。天才的CMディレクター杉山登志 (1936–1973, 37) のポートレイトや、寺山修司 (1935–1983, 47) 監督『書を捨てよ町へ出よう』(1971) を撮影した。1970年にフリーとなりマーク・ボランらを撮影。デヴィッド・ボウイとは生涯にわたる関係を築いた。

2012年、イギリスのジェネシス社より300ページに及ぶデヴィッド・ボウイの大型写真集『Speed Of Life』、2013年に自伝『THE SHOOT MUST GO ON』をリリースした。
1937年6月25日 – 2020年11月2日 83歳
バロン・ウォルマンはアメリカの写真家。ノースウェスタン大学で哲学を専攻し、卒業後は西ベルリンで写真家としてキャリアをスタート。1960年代にアメリカ陸軍の軍事情報部に所属し、除隊後はフォトジャーナリストとなった。

1967年、ロックバンドを撮影していた30歳のウォルマンは、21歳の学生ライター、ジャン・ウェナー (Jann Wenner, 1946– ) とサンフランシスコで出会い、ウェナーらが創刊した音楽雑誌『Rolling Stone』に創刊号から参画。3年間、初代チーフカメラマンとして在籍した。

2021年、短編ドキュメンタリー『Sophie and The Baron』が公開され、アカデミー賞にノミネートされた。
1936年9月14日 – 1996年11月22日 60歳
テレンス・ドノヴァンはイングランドの写真家・映画監督。『Harper's BAZAAR』や『VOGUE』で撮影し、当時新世代の写真家としてデヴィッド・ベイリー、ブライアン・ダフィーと共に1960年代のイギリスのファッション写真を席巻。「Swinging Sixties」の重要人物となった。

1963年、王立写真協会に入会し1968年にフェローシップを獲得。1973年には田宮二郎主演の刑事映画『イエロー・ドッグ』を監督。約3000本のテレビコマーシャルやミュージック・ビデオを手掛けた。1985年、柔道黒帯のドノヴァンは、世界柔道金メダリスト柏崎克彦と『Fighting Judo』を共著。1996年、うつ病を患い縊死した。

ミュージシャンのダン・ドノヴァン女優デイジー・ドノヴァン、史上2番目2億本以上を売り上げたビデオゲーム『グランド・セフト・オートV 』で有名なロックスター・ゲームスの共同設立者テリー・ドノヴァンを授かった。
1936 – 1968
ロナルド・トレーガーはアメリカのファッション写真家・グラフィックデザイナー。主にツィギーの撮影で有名。セシル・ビートンから高く評価されたが、1968年に31歳でホジキンリンパ腫により他界。
1935年10月 –
ハリー・ペッチノッティはロンドン出身の写真家・アートディレクター。セクシャルな作風で知られ、イギリスとアメリカでアートディレクションと写真の両方で数々の賞を受賞した。

1965年、イギリスのファッション雑誌『Nova』の初代アートディレクターに就任し、実験的なデザイン、写真、タイポグラフィー、テーマ、テキストで写真家やグラフィックデザイナーに影響を与えた。その後、『Flair』『Vanity Fair』『Rolling Stone』『VOGUE』などのアートディレクターを経て写真家として専念。1968年と1969年にピレリカレンダーで撮影。2013年にリアム・ギャラガーのバンド、ビーディ・アイの2ndアルバム『Be』でピレリカレンダーの写真が使用された。
1935年1月7日 – 2024年8月11日 89歳
バリー・ラテガンは南アフリカ出身の写真家。1955年に渡英し、ブリストルの名門オールドヴィック演劇学校で学んだ。イギリス空軍の兵役に就いていたときに写真と出会い、ケープタウンでカメラマンのアシスタントを経て、イギリスでキャリアを開始。ヴィダル・サスーン (Vidal Sassoon, 1928–2012, 84) の前衛的なヘアスタイルやアン王女、ポール・マッカートニーなどの著名人を撮影し、2007年に王立写真協会の名誉会員に選出された。
1934年11月16日 – 2022年1月15日 87歳
スティーヴ・シャピロはアメリカの写真家。ブルックリン出身で、両親はロックフェラーセンターで文房具店を経営していた。9歳の時に写真と出会い、アンリ・カルティエ=ブレッソンに憧れフォトジャーナリズムの道に進んだ。シャピロは第二次世界大戦中に影響力のあったマグナム・フォトの写真家ユージン・スミス (Eugene Smith, 1918–1978, 59) に師事。1961年にフリーランスとなり、写真は『LIFE』『Vanity Fair』『 Sports Illustrated』『Newsweek』『Time』『Paris Match』などに掲載された。

その後、ジョン・シュレシンジャー『真夜中のカーボーイ』 (1969)、フランシス・フォード・コッポラ監督『ゴッドファーザー』(1972)、ロマン・ポランスキー監督『チャイナタウン』(1974)、マーティン・スコセッシ監督『タクシードライバー』(1976) など映画撮影の現場を撮影した。
1933年11月30日 – 2000年9月20日 66歳
ジャンルー・シーフはフランスの写真家で、ポーランド人の両親のもとパリで生まれた。女性写真家の先駆者の一人ゲルトルート・フェール (Gertrude Fehr, 1895–1996, 101) から写真を学び、1954年にプロの写真家として独立。1960年代にアメリカの『LOOK』『GLAMOUR』『Esquire』『Harper's BAZAAR』、ヨーロッパの『VOGUE』『twen』『Queen』などの雑誌で撮影した。。娘ソニア・シーフ (Sonia Sieff, 1979– ) も写真家。
1933年10月9日 – 2022年8月29日 88歳
メルビン・ソコルスキーはニューヨーク生まれ。写真を独学し1958年に写真家としてキャリアをスタート。翌年『Harper's BAZAAR』のアートディレクター、ヘンリー・ウルフの依頼でわずか21歳にして同誌で撮影し、1963年に球体の中でモデルが「浮かぶ」様子を撮影した「Bubble」シリーズと「Fly」シリーズが掲載された。『VOGUE』『The New York Times』などで撮影した後、1969年にテレビコマーシャルの撮影監督に転身。25以上のクリオ賞(カンヌライオンズ、One Show と並ぶ世界最高峰の広告コンクール)を受賞した。

1933年6月15日 – 2010年5月31日 76歳
ブライアン・ダフィーはロンドン出身の写真家。第一次世界戦時中に生まれ、「自由に走り回り、爆撃跡を探検する魅惑的な子供時代」を送った。新世代の写真家としてデヴィッド・ベイリー、テレンス・ドノヴァンと共にイギリスのファッション写真を席巻し、「Swinging Sixties」の重要人物となった。

1953年にセントラル・セント・マーチンズを卒業し、ファッションブランド「スーザン・スモール」やマーガレット王女のお気に入りのデザイナー、ヴィクター・スティベルの元で働いた。パリを訪れた際、クリストバル・バレンシアガから仕事をオファーされたが、妻が妊娠していたため引き受けることができなかったという。

1955年『Harper's BAZAAR』のファッションアーティストとしてフリーランス契約。同誌でファッション写真に興味を持ち、写真家エイドリアン・フラワーズのアシスタントになった。なお、フラワーズのアシスタントにはテレンス・ドノヴァン (Terence Donovan) やクリス・キリップ (Chris Killip) らがいた。1957年から1962年までダフィーは英国版『VOGUE』でアートディレクターのジョン・パーソンズ (John Parsons) の元でトップモデルのジーン・シュリンプトン (Jean Shrimpton) らを撮影し、彼女をデヴィッド・ベイリー (David Bailey) に紹介した。

1962年から1966年、1974年から1979年の2度にわたり、スイス人アートディレクター/写真家のピーター・ナップの元でフランス版『ELLE』で働き、『Nova』『London Life』『Cosmopolitan』『Esquire』『Town, Queen』『The Observer』『The Sunday Times Magazine』など数多くの出版物に写真が掲載された。1965年と1973年に2度のピレリ・カレンダーベンソン&ヘッジススミノフなどのコマーシャルフォトを撮影。英国の紙巻たばこブランド「シルクカット」のコンセプトデザインを手掛け、世界有数の広告代理店 Saatchi & Saatchi のアートディレクター、ポール・アーデン (Paul Arden) に売却した。

1968年、スパイ小説の巨匠レン・デイトンと映画製作会社「Deighton Duffy」を共同設立し『Only When I Larf』(1967) や『Oh! What a Lovely War』(1969) を製作。1970年代には、デヴィッド・ボウイ『Aladdin Sane』(1973)『Lodger』(1979)『Scary Monsters』(1980) のカバーアートおよびボウイが演じたジギー・スターダストとシン・ホワイト・デュークを撮影した。

1979年、ダフィーは突然写真撮影をやめ、スタジオの庭でネガを焼却していたところ近隣住民が刺激臭を放つ煙に気付き、幸いにも多くの作品が救われた。その後、ABC「All of My Heart」(1982)、ヒューマン・リーグ「Mirror Man」(1982)、スパンダー・バレエ「Gold」(1983) などのミュージックビデオを監督。2人の息子クリス・ダフィーとキャリー・ダフィーと共に映画製作会社「3DZ」を設立。 1988年のブリティッシュ・スチール上場などのコマーシャルを撮影し、「Super 16」フィルムフォーマットの先駆者となった。
1933年4月26日 – 2023年2月8日 89歳
ジュリアン・ワッサーはアメリカの写真家。ペンシルベニア州で生まれ、ニューヨーク市ブロンクスで育ち、10代の頃にワシントンでニュース記事の撮影を開始。ペンシルバニア大学を卒業後、アメリカ海軍の写真偵察部隊に所属。除隊後はロサンゼルスを拠点し、1960–1970年代にかけて『TIME』誌で働いた。パサデナ美術館でマルセル・デュシャンが全裸の作家イブ・バビッツとチェスをしている写真が有名。
1930年11月3日 – 2021年8月15日 90歳
1930年、日本人の両親のもと上海に生まれた。本名は若林康宏 (Yasuhiro Wakabayashi) といい、1946年に一家は北京に5カ月間抑留された後、占領下の日本へ送還された。ホテルでファッション雑誌を読んでいたヒロは、リチャード・アヴェドンやアーヴィング・ペンの作品に出会い、すぐにカメラを手にした。

1954年、ヒロはリチャード・アヴェドンに師事するために渡米し、ニューヨーク近代写真学校に入学したが中退。写真家のレスター・ブックバインダーとルーベン・サムバーグに弟子入りし、1956年に念願のアヴェドンのスタジオで働くことになった。翌年、アヴェドンはヒロをアレクセイ・ブロドヴィッチに紹介。1963年には『Harper's BAZAAR』で唯一の契約フォトグラファーとなり、以後10年にわたりその地位を維持した。

「ヒロは普通の人間ではありません。彼は写真史で数少ないアーティストの一人で、恐怖、孤独、暗闇、華麗な光をフィルムに映し出すことができるのです」アヴェドン

息子のグレゴリー・ワカバヤシ (Gregory Wakabayashi) はアートディレクターとなり、写真集『Hiro』をデザインした。
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