'60年代になっても「ハーパース・バザー」は衰えを知らなかった。
新しい世代からロックやスペースエイジ、ポップアートなどが台頭し、ストリートカルチャーとハイファッションが接近した。
「ハーパース・バザー」は、いかにして若返ったのか?
■ナンシー・ホワイトとヘンリー・ウルフ
1958年、スノーとブロドヴィッチが辞任すると、後任として編集長にナンシー・ホワイト、アートディレクターにヘンリー・ウルフが就任した。 ナンシー・ホワイトはスノーの姪で、「グッド・ハウスキーピング」でファッション・エディター、ヘンリー・ウルフは「エスクァイア」で活躍していた。
ウルフの在籍期間は3年と短かったが、ブロドヴィッチがつくりあげたシンプルでエレガントなスタイルを世襲した。
■マーヴィン・イスラエルという偉大な才能
'61年、ウルフの後任として、パーソンズ・デザイン・スクールで教鞭を執っていたマーヴィン・イスラエルが就任。 彼は、ダイアン・アーバスやリー・フリードランダー、デュアン・マイケルズ、ビル・ブラント、ブラッサイといった写真家を好んで起用した。 この頃のアヴェドンの才能を最大限に引き出したのも彼だ。 後にアヴェドンは、こう語っている。 「私にはふたりの教師がいる。ひとりはアレクセイ・ブロドヴィッチで、もうひとりはマーヴィン・イスラエルだ」
。 イスラエルが担当した「ハーパース・バザー」は、わずか20冊ほどだが、その内容は高く評価されている。
■ラッシュ・アンセルとベア・フェイトラー
この頃、ふたりの若い女性グラフィック・デザイナーがイスラエルのアシスタントに就く。
ラッシュ・アンセルとベア・フェイトラーだ。
ベア・フェイトラーは、'59年にパーソンズ・デザイン・スクールを卒業後、ブラジルに帰国。 自身が設立したデザイン・スタジオで、ポスターやレコードのジャケット・デザイン、装丁を行っていたが、パーソンズ時代の教師であったイスラエルに「ハーパース・バザー」で働くよう勧められる。
ラッシュ・アンセルは、アメリカで知り合ったソール・バスや「007シリーズ」のタイトルをデザインしたロバート・ブラウンジョンに刺激され、フィルム・タイトル・デザイナーを目指してヨーロッパにいた。 映画好き
の彼女は、デザインを通して映画と関わりたいと願っていたのだ。 しかし成功の光は見えず、石鹸すら買うお金もない状態に陥っていた。 アメリカに帰国後、ヘンリー・ウルフに「ハーパース・バザーのマーヴィン・イスラエルがアシスタントを探している」と教えてもらい、作品を手にしてイスラエルのもとへ
走った。
'61年、フェイトラーと、すぐ後にアンセルがイスラエルのアシスタントになった。 '63年、イスラエルが解任されると、ふたりはアート・ディレクターを引き継いだ。 このとき彼女たちは、まだ20代半ばという若さだった。
当時、アンセルはブロドヴィッチのことはほとんど知らず、ピカソやマティスら前衛芸術家と映画に夢中だった。 ファッションや写真にほとんど無知だった彼女に、イスラエルは'30〜'40年代の「ハーパース・バザー」を見るようアドバイスした。
そこにはアヴェドンにも影響を与えたマーティン・ムンカッチらの写真が掲載されており、彼女の重要なアーカイブとなった。 彼女は常に「最高の写真と控えめなアートディレクション」を心がけてデザインした。
■若返った「ハーパース・バザー」と、その終焉
彼女たちは、アンディ・ウォーホルやロイ・リキテンシュタイン、ロバート・ラウシェンバーグ、彫刻家のジョージ・シーガルなどに仕事を依頼し、ロック、スペースエイジ、ポップアートなど、ハイファッションにストリートカルチャーを持ち込んだ。
'65年2月号では、表紙にスティーヴ・マックィーンを起用。 男性が女性誌という今ではめずらしくもないことだが、当時としいては画期的なことであった。 特に元祖スーパーモデルのジーン・シュリンプトンが表紙を飾った'65年4月号は、雑誌カヴァーアートの傑作となった。 '66年には、リチャード・アヴェドンの撮影で黒人モデルのダニエレ・ルナが登場。彼女はファッション誌に掲載された初の黒人モデルとなったが、物議をかもした。
アヴェドンのアシスタントだった Hiro
や、セクシュアルな新しい女性像を描いたボブ・リチャードソン、シュールな作風で人気を博したメルビン・ソコルスキーなど、新しい世代の写真家も登場した。
ヴィジュアル面以外でも、レナータ・アドラー、ブルース・ジェイ・フリードマンなど、若い気鋭のライターを起用。
「ハーパース・バザー」は見事に若返った。
しかし、これらのイメージは一般誌として、あまりにも刺激的過ぎたようだ。 '70年代になると、「ハーパース・バザー」を所有するハースト・マガジン社は市場を気にし、保守的になりはじめた。 '72年5月号を最後にフェイトラーがフェミニズム運動グロリア・スタイネムの「Ms.
Magazine」へ移籍。 同年、アンセルも10月号を最後に「ニューヨーク・タイムズ」へ移籍した。
「ハーパース・バザー」がファッション誌として再び輝きを取り戻したのは、ファビアン・バロンがアートディレクターに就任した'92年になってからである。 |
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ロック、スペースエイジ、ポップアート。まだ20代だったラッシュ・アンセルとベア・フェイトラーは、ハイファッションにストリートカルチャーを持ち込み
、若々しく自由な'60年代の空気を表現することに成功した。 |
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1965年2月号の表紙ではスティーヴ・マックィーンを起用。当時の女性誌としいては画期的なことであった。 |
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カヴァーアートの傑作として知られる1965年4月号。「これぞ60s!」といった内容ですばらしい。モデルは当時大人気のジーン・シュリンプトン、撮影はリチャード・アヴェドン。
2005年に全米雑誌編集者協会が発表した「雑誌表紙ベスト40」で15位にランク。 |
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