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1867年、アメリカで創刊された「ハーパース・バザー」。
ご存知のように、「ヴォーグ」(1892年、アメリカで創刊)と双璧をなすハイファッション誌だ。
「ハーパース・バザー」は、'40〜'50年代に伝説的な編集長カーメル・スノーと名アートディレクターのアレクセイ・ブロドヴィッチによって、黄金期を築き上げた。


「天才を見出す天才」 カーメル・スノー

カーメル・スノーはダブリン出身のアイルランド移民で、「ニューヨーク・タイムズ」で記者をしていた。パリコレの記事が好評で、'22年、コンデ・ナストの誘いで「ヴォーグ」へ移籍。 編集長エドナ・ウールマン・チェイス(Edna Woolman Chase)のもとでファッション・エディターのアシスタントとして働いた。

数年後、ファッション・エティターに昇格するが、'32年に「ハーパース・バザー」へ移籍し、編集長に就任した。 これを裏切りと見なしたコンデ・ナストとは、以来、口をきくことはなかったという。


アートディレクターにアレクセイ・ブロドヴィッチを起用

'34年、スノーはロシア出身のアレクセイ・ブロドヴィッチを「ハーパース・バザー」のアートディレクターとして起用した。 彼はロシアからパリへ亡命し、アメリカに渡ってイラストレーターをしながらフィラデルフィア美術学校でデザインを教えていたのだが、その評判がスノーの耳に入った のだ。

アートディレクターに就任すると、ブロドヴィッチは「余白」という概念を取り入れ、これまでにないまったく新しいファッション誌をデザインした。 マン・レイダリカッサンドルといったヨーロッパのアーティストをアメリカに紹介し、当時、無名のアンディ・ウォーホルにイラストを依頼した。

'40年代後半には、ロゴ・デザインを一新。
フォントは「Didot」(後にファビアン・バロンによって「HTF Didot」が開発された)を使用し、スタイリッシュに仕上げた。

グラフィック、イラスト、写真を教えていた彼の「デザイン・ラボラトリー」からは、アーヴィング・ペンリチャード・アヴェドンといった偉大な才能を輩出した。


ダイアナ・ヴリーランドをスカウト

'37年、スノーはセント・レジスのダンスホールで、シャネルを着た黒髪の女性と出会った。 ダイアナ・ヴリーランドだ。 パリからやってきたヴリーランドは、優雅で洗練された着こなしでニューヨーク社交界の人気者になっていた。 「天才を見出す天才」だったスノーは、すぐさま彼女を「ハーパース・バザー」のファッション・エディターとしてスカウトした。

彼女のコラム「Why Don't You?」は人気を博すが、'61年、「ヴォーグ」へ移籍。 '64年まで編集長を務めた。 その後もファッション界において絶大な力を持ち、イヴ・サンローランローレン・バコールなど多くのデザイナーやモデル、写真家を見出した。


革新的なヴィジュアル

スノーとブロドヴィッチは、マン・レイホイニンゲン・ヒューンルイーズ・ダール・ウォルフブラッサイビル・ブラントといった革新的な写真家を起用し、次々と「ハーパース・バザー」で発表した。 '33年には当時、報道カメラマンだったマーティン・ムンカッチと年間10万ドルという破格のギャラで契約。モデルをマネキンのように立たせてスタジオ撮影をしている時代に、彼らは屋外での撮影を指示した のだ。ファッション写真に「モーション」という概念を導入したのだ。 動きのあるダイナミックな写真は、以後、多くの写真家に多大な影響を与えた。

'45年には、ブロドヴィッチの「デザイン・ラボラトリー」で写真を学んでいたリチャード・アヴェドンが専属カメラマンとして参加。 スノー、ブロドヴィッチ、ヴリーランド、アヴェドン。 ここに最強の布陣が完成し、ファッションは黄金期を迎えた。

'47年には、クリスチャン・ディオールの初コレクションを大々的に取り上げ、「ニュールック!」と絶賛。ファッションのみならず、ジャン・コクトージョン・チーヴァーの小説、ダイエット、演劇レビュー、政治関連の記事も掲載した。
「Harper's Bazaar」 1936年6月号
アートディレクターに就任したアレクセイ・ブロドヴィッチは、大胆に余白を使い、洗練されたデザインを行った。
「Harper's Bazaar」 1933年11月号
報道カメラマンだったムンカッチは、ファッション写真に「動き」をもたらし、多くの写真家に影響を与えた。
「Harper's Bazaar」 1945年4月号
女優ローレン・バコールはダイアナ・ブリーランドによって見出されたモデルのひとり。「ハーパース・バザー」を見たスリム・ホークスの目にとまり、女優に 転身した。
「Harper's Bazaar」 1956年4月号
ディオールをまとったオードリー・ヘップバーンも表紙を飾った。撮影はリチャード・アヴェドン。
■カーメル・スノー [ Carmel Snow ] 1887 - 1961
「ハーパース・バザー」の伝説的な編集長。
1887年、ダブリンの勤勉な中流階級の家庭に生まれた。
幼いころから活発で反抗的な少女だったようだ。
'21年、「ニューヨーク・タイムズ」で記者をした後、
'22年、コンデ・ナストに誘われ「ヴォーグ」のファッション・エディターになる。
32年、「ハーパース・バザー」へ移籍し、編集長に就任。
'58年まで歴任し、アレクセイ・ブロドヴィッチとコンビで黄金時代を築いた。
無名だったダイアナ・ヴリーランドリチャード・アヴェドンを起用した功績は大きい。
引退後はアイルランドに戻り、18世紀の屋敷を買いとって暮らした。
■アレクセイ・ブロドヴィッチ [ Alexey Brodovitch ] 1898 - 1971
1898年、ロシアに生まれ。スノーが登用した名アートディレクター。
'20年、パリに亡命し、ディアギレフピカソマチスレジェマン・レイ
ル・コルビュジエ
ニジンスキーなど、前衛芸術家たちと交流。
'30年に渡米し、フィラデルフィア美術学校でデザインを教えながら、イラストレーターとして活躍した。
'34年から'58年まで「ハーパース・バザー」のアートディレクターとして在籍。
「ヴォーグ」のアートディレクター、アレクサンダー・リバーマン(Alexander Liberman)と'40・'50年代ファッションシーンを盛り上げた。
彼が主催していた「デザイン・ラボラトリー」からは、アーヴィング・ペンリチャード・アヴェドンなどを輩出。
また伝説的なグラフィックマガジン「Portfolio」(1950-51 全3冊)では、
イームズアレキサンダー・カルダーポール・ランドソウル・スタインバーグらをいち早く紹介した。
引退後はデザイン活動をほとんどせず、南フランスの小さな村で生涯を閉じた。
■ダイアナ・ヴリーランド [ Diana Vreeland ] 1906 - 1989
1906年、パリ生まれ。
'37年、カーメル・スノーに才能を見出され、「ハーパース・バザー」のファッションエディターに就任。
'61年、「ヴォーグ」へ移籍し、'64年まで編集長を務めた。
その後も絶大な力を持ち、多くのデザイナーやモデル、写真家を見出した。
■マーティン・ムンカッチ [ Martin Munkacsi  ] 1896 - 1963
ハンガリー出身のユダヤ系の写真家。
'33年、報道畑からファッション写真家に転身し、「ハーパース・バザー」で活躍した。
屋外撮影や動きを導入し、ファッション写真を革新。
一世を風靡し、リチャード・アヴェドンをはじめ、多くの写真家に影響を与えた。
■リチャード・アヴェドン [ Richard Avedon ] 1923 - 2004
20世紀最高のファッション写真家のひとり。 愛称は"Dick"。
1923年、ニューヨーク生まれ。両親はロシア人とユダヤ人。
コロンビア大学で哲学んだ後、
'44年から'50年までアレクセイ・ブロドヴィッチのデザイン・ラボラトリーで写真を学ぶ。
'45年、「ハーパース・バザー」のカメラマン専属となり、次々と傑作を発表した。
'66年、「ヴォーグ」へ移籍し、'90年まで同誌で活躍。
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