1867年、アメリカで創刊された『ハーパーズ・バザー』。
1892年に同国で創刊された『ヴォーグ』と
双璧をなすハイファッション誌で、
1940–1950年代に伝説的な編集長カーメル・スノーと
名アートディレクターのアレクセイ・ブロドヴィッチ
によって黄金期を築き上げた。

天才を見出す天才、カーメル・スノー
Carmel Snow, 1887–1961, 73

Carmel Snow

カーメル・スノー はアイルランドの首都ダブリンで生まれた。幼くして父親が亡くなり、母親とアメリカに移住。母親はやがてニューヨークの社交界御用達のドレスメーカーとなった。

スノーは『ニューヨーク・タイムズ』の記者になり、パリコレの記事が人気を博した。1922年、スノーはコンデ・ナスト社の創業者コンデ・ナスト (Condé Nast, 1873–1942, 69) にスカウトされ『ヴォーグ』へ移籍。 編集長エドナ・ウールマン・チェイス (Edna Woolman Chase, , 1877–1957) のもとでファッション・エディターのアシスタントとして働いた。

数年後、ファッション・エティターに昇格したが、1932年に『ハーパーズ・バザー』へ移籍し編集長に就任した。これを裏切りと見なしたコンデ・ナストとは以来、口をきくことはなかったという。

天才アートディレクター、アレクセイ・ブロドヴィッチ
Alexey Brodovitch, 1898 – April 15, 1971, 73

Alexey Brodovitch

アレクセイ・ブロドヴィッチは精神科医の父親、アマチュア画家の母親を持ち、ロシアの裕福な家庭で生まれた。第一次世界大戦に従軍後、妻とパリへ移住しセルゲイ・ディアギレフ (Sergei Diaghilev, 1872–1929,57) のもとでキャリアをスタートした。バレエ・リュスのポスターや装飾品をデザインしたり、写真撮影も行った。1924年、ポスターコンテストでブロドヴィッチの作品「Le Bal Banal」がグランプリを獲得。2位となったパブロ・ピカソ (Pablo Picasso, 1881–1973) の絵とともに展示され一躍注目を集めた。

その後もパリ国際装飾美術展などで数々のメダルを受賞し、高級ブティックや百貨店、出版社、ユニオン・ラジオ・パリ、クイーン・エリザベス号で有名なキュナード社などのカタログやポスター、装丁などのデザイン、陶磁器、宝石、織物、絵画の制作を行い、フランス屈指のグラフィックデザイナーとなった。

1930年、ブロドヴィッチの才能に圧倒されたペンシルベニア美術アカデミーの理事に請われ、妻と息子を連れてペンシルベニア州フィラデルフィアへ移住した。ブロドヴィッチが主催した「デザイン・ラボラトリー」は、グラフィック、イラスト、写真などを教える人気のワークショップとなり、60人以上の学生が来ることも珍しくなかった。ここからアーヴィング・ペン (Irving Penn, 1917–2009, 92) やリチャード・アヴェドン (Richard Avedon, 1923–2004, 81)、ヒロ (Hiro, 1931–2021, 90) 、ボブ・ケイト (Bob Cato, 1923–1999, 75) といった偉大な才能を輩出した。

この評判がスノーの耳に入り、1934年に彼女はブロドヴィッチを『ハーパーズ・バザー』のアートディレクターとして起用。ブロドヴィッチは「余白」という概念を取り入れ、これまでにないまったく新しいファッション誌をデザインした。マン・レイサルバドール・ダリカッサンドルといったヨーロッパのアーティストをアメリカに紹介し、当時無名のアンディ・ウォーホルにイラストを依頼した。

1940年代後半には、フランスで誕生したモダンローマン「Didot」(ディド)をベースにロゴタイプを刷新。ブロドヴィッチによって構築されたこのフォーマットは、ファッションにおけるグラフィックの定番となった。

ブロドヴィッチは『ヴォーグ』でアートディレクターを務めたウクライナ出身のアレクサンダー・リバーマン (Alexander Liberman, 1912–1999, 87) と1940–1950年代のファッションシーンを盛り上げた。また伝説的なグラフィックマガジン『Portfolio』(1950-51 全3冊)では、インテリアデザイナーのチャールズ・イームズ、彫刻家のアレキサンダー・カルダー、グラフィックデザイナーのポール・ランド、イラストレーターのソール・スタインバーグらをいち早く紹介し、彼らは世界的なアーティストになった。引退後はデザイン活動をほとんどせず、南フランスの小さな村で生涯を閉じた。

ファッション界の伝説、ダイアナ・ヴリーランド
Diana Vreeland, 1903–1989, 86

Diana Vreeland

1937年、スノーはセント・レジスのダンスホールで、シャネルを着た黒髪の女性と出会った。 パリからやってきた彼女はアメリカの金融家と結婚し、洗練された着こなしでニューヨーク社交界の人気者になっていた。「天才を見出す天才」のスノーはすぐさまその黒髪の女性、ダイアナ・ヴリーランド をファッション・エディターとしてスカウトした。

ヴリーランドのコラム「Why Don't You?」(やってみない?)は人気を博し、C.Z.ゲスト (C. Z. Guest, 1920–2003, 83) や大物音楽家コール・ポーター (1891–1964, 73) らと交友。ジャクリーン・ケネディ大統領夫人 (1929–1994, 64) のファッションのアドバイザーも務めた。

ヴリーランドは1961年に『ヴォーグ』へ移籍し、1964年まで編集長を務めた。その後もファッション界において絶大な影響力を持ち、イヴ・サンローランローレン・バコールなど数多くの才能を見出した。

革新的なヴィジュアル

スノーとブロドヴィッチは、マン・レイジョージ・ホイニンゲン=ヒューンルイーズ・ダール=ウォルフブラッサイビル・ブラントといった革新的な写真家を起用し、次々と『ハーパーズ・バザー』で発表した。1933年には報道カメラマンだったマーティン・ムンカッチと年間10万ドルという破格のギャラで契約。モデルをマネキンのように立たせてスタジオ撮影をしている時代に屋外での撮影を指示し、ファッション写真に「モーション」という概念を導入。 動きのあるダイナミックな写真は以後、多くの写真家に多大な影響を与えた。

1945年にはブロドヴィッチの「デザイン・ラボラトリー」で写真を学んでいたリチャード・アヴェドンが専属カメラマンとして参加。スノー、ブロドヴィッチ、ヴリーランド、アヴェドン。最高の布陣が完成し、ファッションは黄金期を迎えた。1947年には、クリスチャン・ディオールの初コレクションを大々的に取り上げ、「ニュールック!」と絶賛。ファッションのみならず、ジャン・コクトージョン・チーヴァーの小説、ダイエット、演劇レビュー、政治関連の記事も掲載した。

マーティン・ムンカッチ
Martin Munkácsi, 18 May 1896 – 13 July 1963, 67

ハンガリー出身のユダヤ系の写真家。1933年、報道カメラマンからファッション写真家に転身。屋外撮影や動きを導入し、ファッション写真を革新した。リチャード・アヴェドンをはじめ多くの写真家に影響を与えた。

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