1960年代になっても『ハーパーズ・バザー』は
衰えを知らなかった。
新しい世代からロックやスペースエイジ、
ポップアートなどが台頭し、
ストリートカルチャーとハイファッションが接近した。
『ハーパーズ・バザー』は、いかにして若返ったのか?
ナンシー・ホワイトは、1916年7月25日ブルックリン生まれ。父親トム・ホワイトはハースト・マガジンのゼネラル・マネージャーで、カーメル・スノーの姪(スノーの旧姓はホワイト)。1958年にスノーとブロドヴィッチが辞任すると、『Good Housekeeping』で16年間勤務していたホワイトが編集長に就任した。
彼女は保守的だったが堅苦しい性格ではなく、新しいデザイナーや写真家を育てることで知られていた。1971年までの在籍期間中に4人のアートディレクター(ヘンリー・ウルフ、マーヴィン・イスラエル、ルース・アンセルとベア・フェイトラー)、そしてリチャード・アヴェドンやヒロといった伝説的な写真家を起用し『ハーパーズ・バザー』の活性化を図った。
1958年、ブロドヴィッチの後任として『エスクァイア』のアートディレクター、ヘンリー・ウルフが迎えられた。ウルフの在籍期間は3年と短かったが、ブロドヴィッチがつくりあげたシンプルでエレガントなスタイルを踏襲した。
ウルフは1925年、オーストリアのウィーンでユダヤ人の家庭に生まれ、パリでアートを学んだ。1941年、ナチスから逃れるため家族とアメリカへ移住し、ニューヨークのインダストリアル・アートスクールに入学。1943年、陸軍に入隊して1946年まで太平洋の諜報部隊に勤務し、戦後は『エスクァイア』(1953–1956) 『ハーパーズ・バザー』(1958–1961) 『Show』(1961–1964) のアートディレクターに就任した。
1965年に告代理店マッキャン・エリクソンで働きはじめ、ジレットやコカコーラなどの有名な広告キャンペーンを指揮。その後、『Trahey/Wolf』 を設立し、副社長兼クリエイティブ ディレクターに就任。サックス・フィフス・アベニュー、ゼロックス、IBM、レブロン、デビアスなどの広告に取り組んだ。1971年には写真・映画・デザインを専門とするスタジオ『Henry Wolf Productions』を設立。パーソンズ美術大学やスクール・オブ・ビジュアル・アーツ、クーパー・ユニオンで教鞭を執りながら、約30年間、写真家とデザイナーとして働き500本以上のテレビコマーシャルと9本の映画を制作した。
1976年、アメリカグラフィックアーツ協会を受賞。1980年にニューヨーク・アートディレクターズクラブの殿堂入りを果たした。この編集をしていて、筆者が高校生の頃よく聴いていた The Al Di Meola Project – Kiss My Axe, 1991 の写真がウルフによる撮影だと知った。
マーヴィン・イスラエルはシラキュース大学大学院で学んだ後、パリで絵画を学んだ。1953年にアレクセイ・ブロドヴィッチのもとでグラフィックデザインを学び、1955年にイェール大学でグラフィックデザインの修士号を取得。パーソンズ・デザイン・スクールで教鞭を執った後、『セブンティーン』誌のアートディレクターに就任。1956年にエルヴィス・プレスリーの写真を撮りはじめた。
1961年、ヘンリー・ウルフの後任として『ハーパーズ・バザー』のアートディレクターに就任。イスラエルは、ダイアン・アーバスやリー・フリードランダー、デュアン・マイケルズ、ビル・ブラント、ブラッサイといった写真家を好んで起用し、この頃のアヴェドンの才能を最大限に引き出した。後にアヴェドンはこう語った。「私にはふたりの教師がいる。ひとりはアレクセイ・ブロドヴィッチで、もうひとりはマーヴィン・イスラエルだ」 。 2年ほどの在任期間でイスラエルが担当した『ハーパーズ・バザー』は20冊ほどだが、その内容は高く評価されている。
その後、アトランティック・レコードのアートディレクターに就任し、ジョン・コルトレーンやレイ・チャールズなどのカバーアートをデザインした。妻はキューバ生まれの非常に個性的な陶芸家マーガレット・ポンセ・イスラエル (Margaret Ponce Israel, 1929–1987) 。
Elvis Presley 1956
Ornette Coleman
The Shape Of Jazz To Come, 1959
John Coltrane
Giant Steps, 1960
John Coltrane
Coltrane's Sound, 1964
1961年、マーヴィン・イスラエルがアートディレクターに就任し、ふたりの若い女性グラフィックデザイナー、ルース・アンセルとベア・フェイトラーがアシスタントに就いた。1963年、ふたりはイスラエルの後任としてアートディレクターを引き継いだ。このとき彼女たちは、まだ20代半ばという若さだった。
彼女たちは、アンディ・ウォーホルやロイ・リキテンシュタイン、ロバート・ラウシェンバーグ、彫刻家のジョージ・シーガルなどに仕事を依頼し、ロック、スペースエイジ、ポップアートなど、ハイファッションにストリートカルチャーを持ち込んだ。1965年2月号では、表紙に世界的な人気俳優スティーヴ・マックィーンを起用。当時、女性誌で男性が表紙を飾るということは画期的なことであった。
Harper's BAZAAR (US), February 1965
Steve McQueen & Jean Shrimpton by Richard Avedon
特にスーパーモデルのジーン・シュリンプトンが表紙を飾ったUS版1965年4月号は、2005年に全米雑誌編集者協会が発表した「雑誌表紙ベスト40」で15位にランクインし、雑誌カヴァーアートの傑作として知られている。もとの写真はシュリンプトンが帽子をかぶっているが、アヴェドンが仕上がりをひどく嫌ったため、帽子を隠すためにアンセルがピンクの紙でコラージュを施した。右目に貼られた特殊加工シールは、見る角度によってウィンクしているように見える。
また、同号には黒人モデルのダニエル・ルナがジェームズ・ガラノスのドレスを纏い、6ページの特集記事で登場。彼女はアヴェドンと1年間の契約を結び、ファッション誌に掲載された初の黒人モデルとなったが物議をかもした。
Harper's BAZAAR (US), April 1965
Jean Shrimpton by Richard Avedon
Donyale Luna by Richard Avedon
アヴェドンのアシスタントだった Hiro や、セクシュアルな新しい女性像を描いたボブ・リチャードソン、シュールな作風で人気を博したメルビン・ソコルスキーなど新しい世代の写真家も登場した。また、レナータ・アドラー、ブルース・ジェイ・フリードマンなど若い気鋭のライターを起用し『ハーパーズ・バザー』は見事に若返った。
しかし、これらのイメージはあまりにも刺激的過ぎたようで、1970年代になると『ハーパーズ・バザー』を所有するハースト・マガジン社は市場を気にし保守的になりはじめた。1972年5月号を最後にフェイトラーがフェミニズム運動家グロリア・スタイネムが創刊した『Ms. Magazine』へ移籍。同年、アンセルも10月号を最後に『The New York Times』へ移籍した。
『ハーパーズ・バザー』がファッション誌として再び輝きを取り戻したのは、1992年にリズ・ティルベリス (Liz Tilberis, 1947–1999, 51) が編集長 、ファビアン・バロン (Fabien Baron, 1959– ) がアートディレクターに就任してからである。
ベア・フェイトラーは1938年、ナチスドイツからブラジルへ逃れてきたユダヤ人の家族に生まれた。1959年にパーソンズ・デザイン・スクールを卒業後ブラジルに帰国し、自身が設立したデザインスタジオでポスターやカバーアートのデザイン・装丁を行っていたが、パーソンズ時代の教師であったイスラエルに『ハーパーズ・バザー』に誘われてアシスタントデザイナーになった。1963年、ルース・アンセルとともにアートディレクターに就任した。
その後『Ms. Magazine』(1972–1974) のアートディレクター、1974–1980年までスクール・オブ・ビジュアル・アーツで教鞭を執った。ローリング・ストーンズのカバーアートをデザインしたこともあって、彼女の授業は学生たちに人気を博した。1978年『ヴォーグ』のコンデ・ナスト社のコンサルティング・アートディレクターに就任。Alvin Ailey Dance Company のコスチュームデザインも手がけた。1982年4月、ガンのためリオで死去。44歳という若さだった。
The Rolling Stones – Black And Blue, 1976
Art Direction by Bea Feitler, Photo by Hiro
ルース・アンセルは、1938年ニューヨーク市ブロンクス生まれ。1957年にアルフレッド大学で陶芸デザインの学士号を取得後、コロムビア・レコードのアートディレクター、ボブ・ケイト (Bob Cato, 1923–1999) のアシスタントとなった。ケイトはブロドヴィッチの生徒で、以前『ハーパーズ・バザー』で彼のアシスタントをしていた。
彼女は、イラストレーターのボブ・ギル (Bob Gill, 1931–2021) と結婚。ギルはジョージ・ロイス、ロバート・ブラウンジョン、ソール・バス、アイヴァン・チャマイエフを紹介してくれたが、ふたりの関係は長く続かなかった。1962年、ギルはアラン・フレッチャー、コリン・フォーブスとペンタグラムの前身となるデザインスタジオ Fletcher/Forbes/Gill を設立した。
アンセルはヨーロッパの旅から帰国後、ヘンリー・ウルフに「ハーパーズ・バザーのマーヴィン・イスラエルがアシスタントを探している」と教えてもらい、1961年にイスラエルのアシスタントとして働き始めた。イスラエルは、ブロドヴィッチのことはほとんど知らずピカソやマティスら前衛芸術家と映画に夢中だった彼女に1930–1940年代の『ハーパーズ・バザー』を見るようアドバイスした。そこにはリチャード・アヴェドンに影響を与えたマーティン・ムンカッチ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、リゼット・モデル(ダイアン・アーバスの師)、ヘルベルト・マターらの写真やA.M.カッサンドルの作品が掲載されており、彼女の重要なアーカイブとなった。
1963年、ルース・アンセルとともに最年少でアートディレクターに昇格し、「最高の写真と控えめなアートディレクション」を心がけてデザインを行った。『ハーパーズ・バザー』退職後は『ニューヨーク・タイムズ』(1974–1982)『ヴァニティ・フェア』(1983–1988)『ヴォーグ』(1988–1989) で仕事を続けた。
「私が一緒に仕事をした数少ない素晴らしいアートディレクターの中で、ルースは最もミステリアスな存在でした。彼女は言語を超越し、これまで表現できなかったビジュアルを創造しました」リチャード・アヴェドン
Genevieve Waite – Romance Is On The Rise, 1973
Photo by Richard Avedon, Designed by Ruth Ansel
20世紀最高のファッション写真家のひとり。 愛称は"Dick"。ニューヨークのロシア系ユダヤ人の家庭に生まれ、コロンビア大学で哲学を専攻。1944年から1950年までアレクセイ・ブロドヴィッチに写真を学んだ。1945年『ハーパーズ・バザー』の専属カメラマンとなり次々と傑作を発表。1966年に『ヴォーグ』へ移籍し、1990年まで同誌で活躍した。ビートルズ、サイモン&ガーファンクル、シェール、スライ&ザ・ファミリーストーン、ホイットニー・ヒューストンなどを撮影したカバーアートも有名。
1930年、日本人の両親のもと上海に生まれた。本名は若林康宏 (Yasuhiro Wakabayashi) といい、1946年に一家は北京に5カ月間抑留された後、占領下の日本へ送還された。ホテルでファッション雑誌を読んでいたヒロは、リチャード・アヴェドンやアーヴィング・ペンの作品に出会い、すぐにカメラを手にした。
1954年、ヒロはリチャード・アヴェドンに師事するために渡米し、ニューヨーク近代写真学校に入学したが中退。写真家のレスター・ブックバインダーとルーベン・サムバーグに弟子入りし、1956年に念願のアヴェドンのスタジオで働くことになった。翌年、アヴェドンはヒロをアレクセイ・ブロドヴィッチに紹介。1963年には『ハーパーズ・バザー』で唯一の契約フォトグラファーとなり、以後10年にわたりその地位を維持した。
「ヒロは普通の人間ではありません。彼は写真史で数少ないアーティストの一人で、恐怖、孤独、暗闇、華麗な光をフィルムに映し出すことができるのです」アヴェドン
息子のグレゴリー・ワカバヤシ (Gregory Wakabayashi) はアートディレクターとなり、写真集『Hiro』をデザインした。
HIRO: Photographs, 1997
Edited by Richard Avedon
The New Christy Minstrels
New Kick!, 1966
Miles Davis
Filles De Kilimanjaro, 1966
Miles Davis
Miles In The Sky, 1968
Jefferson Airplane
Crown Of Creation, 1968
Johnny Winter
Johnny Winter, 1969
Chick Corea
Return To Forever, 1972
The Rolling Stones
Black And Blue, 1976
ボブ・リチャードソンは1928年、ニューヨーク生まれ。絵画とファッションに興味があったリチャードソンは、パーソンズ・スクール・オブ・デザインとプラット・インステテュートで学んだ。卒業後、ファブリックのデザイン、サックス・フィフス・アベニューやブルーミングデールズのウィンドウディスプレイを制作しながら、写真家のアシスタントを務めるようになった。
1963年、35歳で『ハーパーズ・バザー』から撮影を依頼され、彼の挑発的でセクシュアルなスタイルは、ピーター・リンドバーグ (Peter Lindbergh 1944–2019, 74)、ブルース・ウェーバー (Bruce Weber, 1946– )、スティーヴン・マイゼル (Steven Meisel, 1954– ) らに影響を与えた。1枚の写真で1万5千ドルもの報酬を得るようになり、ファッション写真のトップに上り詰めたものの何度も出版社と衝突したという。「セックス、ドラッグ、ロックンロール。それが現実だったんだ。しかし、アメリカではそれを望んでいなかった。編集者の何人かは、まだクチュールに白い手袋をしていた」
うんざりしたリチャードソンは一家でヨーロッパに移住し、フランス版『ヴォーグ』で撮影を開始。当時18歳だったアンジェリカ・ヒューストン (Anjelica Huston)と撮影で出会い、4年間にわたり恋愛関係となった。
1980年代に一線から退き、サンフランシスコへ移住した。著名な美術史家マーティン・ハリソンが、ファッション写真史を執筆するために同地を訪れ、安ホテルに住んでいたリチャードソンを発見。ハリソンの著書『Appearances. Fashion Photography Since 1945』は1991年に出版されたが、リチャード・アヴェドンはリチャードソンと一緒でなければ、この本に参加することを拒んだと言う。なお、ルース・アンセルは「アヴェドンを震えさせた唯一の写真家」と語った。
リチャードソンは再び写真を撮りはじめ、息子テリーもサンフランシスコに移住してきた。テリーは父親に写真のすべてを教えてもらったという。やがてリチャードソンはニューヨークに戻り、アヴェドンやスティーブン・マイゼルの助けを借りて、国際写真センターとスクール・オブ・ビジュアル・アーツの教職に就くことができた。
リチャードソンは1990年代も撮影を続け、『Big Magazine』1996年14号では一冊まるごと彼を特集し、『L'Uomo Vogue』はリチャードソンに40ページを提供した。1990年代初頭、リチャードソンは自伝『Outsider』の執筆を開始し、彼の死後2022年に出版された。現在、テリー・リチャードソン (Terry Richardson, 1965– ) が父リチャードソンの遺志を継いでいる。
メルビン・ソコルスキーは1933年10月9日、ニューヨーク生まれ。写真を独学し1958年に写真家としてキャリアをスタート。翌年、ヘンリー・ウルフの依頼でわずか21歳にして『ハーパース・バザー』で撮影した。
1963年、上空に宙吊りにされた球体プラスチックの中でモデルが「浮かぶ」様子を撮影した「Bubble」シリーズと「Fly」シリーズが『ハーパース・バザー』に掲載された。『ヴォーグ』『ニューヨーク・タイムズ』などで撮影した後、1969年にテレビコマーシャルの撮影監督に転身。25以上のクリオ賞(カンヌライオンズ、One Show と並ぶ世界最高峰の広告コンクール)を受賞した。
Over New York, 1963
Lip Streaks, 1967
Bill Evans Trio – Portrait In Jazz, 1960
Chet Baker and Wally Coover, 1959
Céline Dion – A New Day Has Come, 2002
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